大判例

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甲府地方裁判所 昭和34年(わ)52号 判決

判   決

古屋正治

熊谷なみ代

右の者に対する現住建造物放火、詐欺被告事件について、当裁判所は検察官塚谷悟出席のうえ審理を遂げ、次のとおり判決する。

主文

被告人両名は無罪。

理由

本件公訴事実は

被告人古屋正治は、事業資金等入手の方法として保険金を騙取する意図の下に昭和三二年一〇月一日頃富士火災海上保険株式会社との間に古屋所有にかかる北巨摩郡長坂町上条区二、〇二一番地上旅館兼飲食店湖楽の木造トタン葺三階建家屋一棟及び同建物内の商品に対し自己名義で金五百万円、同建物内の家財道具及び営業用什器に対し同人の内妻被告人熊谷なみ代名義で金五百万円、保険金合計一千万円に及ぶ火災保険契約を締結した上被告人両名は共謀して右建物を焼燬し、もつて右保険金を詐取しようと決意し、

第一、昭和三三年三月一五日午前二時頃前記湖楽建物の勝手場において同所にとりつけてあつたプロパンガス装置のタンクバルブ附近に火を放ち、右勝手場の戸棚天井板等に延焼させて前記湖楽建物を全焼せしめ、よつて現に人の住居に使用する建物を焼燬し

第二、同月一八日頃同町上条二、〇七七番地千野秀雄方において前記焼燬にかかる建物(時価約一三四万円)、商品(約二二万円相当)、営業用什器(約五〇万円相当)、家財道具(約六四万円相当)の罹災額は実際は合計二七〇万円位であるのにこれを秘して過大に評価し、罹災損害見積書に建物四二〇万円、商品一、二四七、一〇〇円、営業用什器三、九五七、五〇〇円、家財道具一、八五七、二〇〇円位にも及ぶ旨を記載した上これを長野県諏訪市きのえ旅館において前記保険会社査定主任木村豊次等に提出し、火災原因につき前記放火の事情を秘し、あたかも糠かまどの失火により発火したごとく申向け、同人等をして各その旨誤信させて九二五万円の填補額を査定させ、よつて同年同月二八日頃右保険会社から長野県岡谷市八十二銀行岡谷支店に金九二五万円の火災保険金の送付を受けてこれを受領し、もつて右保険金を騙取し

たものである、というにある。

一、右公訴事実に関し、

(一)  被告人古屋正治は、昭和三二年一〇月一日頃富士火災保険株式会社との間に古屋所有にかかる山梨県北巨摩郡長坂町上条区二、〇二一番地上旅館兼飲食店湖楽の木造トタン葺三階建家屋一棟並びに同建物内の商品に対し、自己名義で金五〇〇万円、同建物内家財道具、営業用什器に対し、同人の内妻被告人熊谷なみ代名義で金五〇〇万円の保険金合計金一、〇〇〇万円の火災保険契約を締結したこと、

(二)  昭和三三年三月一五日午前二時頃石湖楽建物の勝手場附近から出火して、前記湖楽建物が全焼したこと、

(三)  被告人古屋正治は、同月一八日頃同町上条二、〇七七番地千野秀雄方において、右被告人の甥谷戸常秋等の協力で前記焼燬にかかる罹災物件につき、前記建物を金四二〇万円、商品を金一、二四七、一〇〇円、営業用什器を金三、九五七、五〇〇円、家財道具を金一、八五七、二〇〇円とする罹災損害見積書を作成の上、これを長野県諏訪市きのえ旅館において前記保険会社査定主任木村豊次等に提出し火災原因を糠かまどの失火であると申述べ、同人等をして金九二五万円の填補額を査定せしめ、同年同月二八日頃右保険会社から長野県岡谷市八十二銀行岡谷支店に金九二五万円の火災保険金の送付を受けてこれを受領したこと、

以上の事実、(証拠―省略)を綜合して十分認定し得るところである。

二、そこで検察官は、右認定の湖楽の建物が全焼したのは、直接的証拠はないが幾多の情況事実より被告人らの放火によるものであることが推認できる、と主張し、被告人らは、右放火の事実を否認するので、この点につき判断する。

(一)  先ず、検察官は、当時被告人らが放火した以外、他に何等の出火原因がなかつた、と主張しているから、これについて検討する。

(証拠―省略)によれば、左の事実が認められる。

1、被告人古屋は、昭和二七年頃台所改善の普及運動をやつていたことがあつて、かまどにつき関心をもち、他家のぬかかまどの設備などを参考として自ら湖楽のぬかかまどを設計造築したもので、この構造は板間に煉瓦をおき、その上にいわゆる五右衛門風呂の釜をすえ、その上に鉄かまどの底をふせたうえ、煉瓦を積んで土でぬり固め、かまどの下部に直径三寸位、長さ四寸の土管を使つて、焚口とし、空き罐を利用しその蓋とし、使用方法は、棒で空気穴を作りつつおが屑をバケツに七、八杯つめ、焚口から点火するものであつたこと、

2、下方から詰め込んだおが屑が七分通り位まで燃えると、残りのおが屑がくずれ落ち、蓋がないと火の粉が飛び出すことのあること、

3、被告人熊谷は、ふだんは右蓋が短いため、おが屑が燃え落ちるとき蓋が飛ばされ、板間に火の粉が飛び散るので十能で蓋を押えていたこと、

4、平素は、午前八時ないし九時頃、おが屑を詰め点火し、火力は午後一一時ないし一二時頃まであり、蓋をしておけば翌朝まで残つていたこと、

5、右三月一四日には被告人熊谷が午前一一時頃、おが屑をかまどに詰め点火したこと、

6、昭和三二年二月頃には被告人古屋が床板のすき間に火の粉が落るのを防止するため焚口前にトタン板を張つたこと。

右認定事実からすれば、右三月一四日には平素より二時間遅く点火したので、その翌一五日午前二時頃までは相当の火力が残つていたものというべく、当時焚口に蓋がしてなかつたなら、勿論焚口からの出火の可能性を否定するものはないであろう、もし被告人熊谷のいうごとく一五日午前零時半頃、焚口の蓋をし、これを十能で押えたとするも、右押えの十能が故意にとり去るなどしないかぎり絶対に倒れることはないという特段の事情があれば格別、そうでなければ何かのはずみで倒れることが絶無であると断定することはできないところ、右特段の事情を認めるべき資料なく、したがつて当時押えの十能が何かの事由で倒れ、かまどの中のおが屑がくづれ落ちて蓋を飛ばし、火の粉が焚口から飛散することによる出火の蓋然性が絶無であつたとはいいえない、しかも、当裁判所の証人谷戸よし江の尋問調書により明らかな、同証人が昭和三二年二月頃湖楽へ手伝いに行つたとき、正午過ぎ右かまどから炎が出て四、五尺位上の棚にあるボール箱や、板壁に引火した事実のあつたことを思い合せると、右かまどからの出火の蓋然性は更に大なるものがあつたといい得るのである。

鑑定人北御門良夫作成の鑑定書中に、「プロパンガスのボンベは、外部からの熱により焼けたものであるが、いかなる方向から加熱されたか不明である。右加熱によりボンベの安全装置が開いてガスが放出され、燃焼は続けられたものである」旨、および「ボンベの元栓開閉用ハンドルが高熱に加熱焼損し、その安全弁囲い板部分の加熱が最も著しい」旨の記載あるも、右蓋然性の認定を防げるものということはできない。

(二)  次にその他の検察官の挙げる情況事実について検討を加えることとする。

1、検察官は、被告人古屋は、本件火災当時合計約七八万円に及ぶ債務を負担しており、同被告人の預金が僅少であり、湖楽の営業が不振であつた情況に照せば、被告人両名は当時経済的に窮迫していたという。

(証拠―省略)を綜合すれば、被告人古屋の北巨摩郡高根村上黒沢の本宅は中流以下の農家であつてさしたる収入もなく、しかも同被告人は右農業は正妻に委かせきりで、自分は旅館湖楽の営業に力を注ぎ、食品協会の常任理事として、アメールデツクスその他の薬品の販売をこととしていたが、その主たる収入の道は湖楽の営業にあつたことがうかがわれ、このことは被告人熊谷にとつても同様であつて、総じて被告人両名の生活は湖楽の営業収入によつていたことは明白である。

そして、(証拠―省略)によれば、湖楽にあつては一時は女中五人程を使つていたこともあつたが、昭和三二年以降は女中をおくこともなく、専ら被告人両名でまかなつてきており、昭和三一年度の湖楽旅館の営業に対する第一種事業税は一、五〇〇円、昭和三二年度にはその所得が課税標準一二万円に達しないと認定され当座取引のごときも不活発で、火災当時には長坂商工信用組合の当座預金現在高が僅かに一五〇円に過ぎないのみならず、他に預金として割増定額貯金等五万余円があるに過ぎなかつた事実がうかがわれ、湖楽の営業が昭和三二年以降本件火災時にいたるまでかなり不振の状態にあつたことを推認することができる。しかして(中略)によれば、本件の火災保険の年額保険料八五、五〇〇円はもともと一時払いであるべきを特に分割払いの取扱いをしてもらつたが、督促を重ねられてようやく六万円を支払い得たに過ぎなかつたものであり(証拠―省略)、によると、被告人古屋は昭和二四年旧甲村から払下げを受けた避病舎一棟の買受代金七万円の内六万円、甲農協に対する融資等債務二三六、三六三円、昭和二九年度以降の地方税滞納額三〇、五三〇円、板山薬局に対する薬品買掛金二七三、五五〇円、須田商店に対する給油代金五、四六〇円、植松金物店に対する建材買掛金七、三四〇円、小林酒店に対する酒類買掛金四七、三一五円、長田ガソリン店に対する給油代金一三、九〇〇円、浅川肥料店に対するセメント買掛金七、〇〇〇円、製材業清水豊に対する建材代金等一〇、三一〇円、金物商仲田孝明に対する電気製品月賦代金六、四〇〇円、御子柴たか子に対する履物取引代金約八万円等の債務を負担していたことが認められる。しかし右証拠によれば、右債務の中には避病舎払下代金や甲農協に対する融資債務及び滞納地方税のように数年も支払、納付ができないままに延引していたものもあるが、他面板山薬局に対する薬品買掛金については、焼失前は現品がある程度現存していたものであり、また例えば小林酒店の買掛金は、小林郁三の先代の当時の取引による債務で、その額については被告人古屋がかねてから争つていたので、小林郁三においてこれまで貸金を請求したことがないこと、浅川肥料店、植松金物店、長田ガソリン店、仲田孝明等に対する債務は、取引の一部残金であつて、催促は受けたことがあつても特にこれまで厳重に督促されなかつたことが認められ、商品取引上それ等の債務につき減額を受ける余地もあり得た事情が推認される。また御子柴たか子に対する債務については後掲各事情のため特段その返済をいそぐべき理由はないので、結局のところ右債務合計約七八万円はそのまま全部火災当時の被告人の負担する債務とはいいえないものと認められる。のみならず事業税、所得税の基本となる営業所得等は現実の営業内容から見てかなり低く評価されているのが通例であるから、課税基準とした営業所得の額をもつてそのまま湖楽状の営業況と認めることは困難である。

そうだとすれば、右のごとく被告人古屋には当時かなりの債務が存しており、湖楽の営業も次第に不振に陥りつつあつたとはいえ被告人ら家族の生活は当時さほど逼迫していたものとは思われない。

2、検察官は、被告人古屋は当時長坂町観光協会が計画していた長坂湖畔の遊園地建設計画に参加し、湖楽の建物を建て直してホテルにすることを目論み、その実現のためにする資金を必要としていたと主張する。

この点については、(中略)当時長坂には町長清水三郎を会長とする同町観光協会によつて、湖楽の裏に当る長坂湖を遊園地とすることが計画され、昭和三二年五月頃、右協会の観光部長に清水泰治が就任し、その後部員の高橋芳久等とともに被告人もこの計画審議に参加していたこと、被告人は右遊園地が具体化されれば湖楽を改築してホテルを作りたい希望をもつていたことが認められ、また当裁判所の証人谷戸よし江の証人尋問調書によれば、同被告人は保険契約締結後である昭和三三年一、二月頃よし江やその四男正三に向い、「正三今少し辛棒しろ、おじさんがここへ一千万円かけて遊園地を作るからその時はお前も工員として使つてやるから。町長さんが八重桜を植えろ、といつてきていることだしするから、四月になればかかる」といい、よし江が「そんな金どこから出るだい」と反問したのに対し、「長坂町の観光部というところから一千万円出る」と明言し、さらに姪のみや子が湖楽の近所の工場に勤めようとしたところ、同女に対し、「みや子も家でいろいろすれば使つてやるからそんなとこへやらないで置けしねえ」、「一千万かけて大工事するからみんな使つてやるから」等といつた事実が認められ、被告人古屋が右計画に対し資金の一部を出すといい出したのは、本件保険金受領後のことも前掲証拠により明らかなところであつて、本件保険契約締結ないし火災当時にあつては、遊園地計画の実現は未定の状態であつたし、被告人古屋は、日頃長坂町ないしは観光協会からその資金のでることを予測し、右計画が実現された場合にはこれまで右企画に参加した一員としてその経営面にも関与できるものと考えていたことから、たまたま谷戸よし江や正三等に向つて将来の抱負として、右のごとく語つたものと察せられる節もあつて、ホテル建設資金の獲得につき当時それほど強い欲求があつたとは思われない。

3、検察官は、本件一、〇〇〇万円の火災保険加入の経緯につき、被告人古屋は、御子柴たか子の火災保険加入勧誘に応じて辻井支部長を紹介されたうえ、その命を受けた外務員鈴木清一との間に加入の交渉を遂げて本件保険に加入したのであるが、被告人古屋は御子柴たか子との間に曾つて履物の取引があつたのみならず、男女関係をもつたこともあり、昭和三二年八月頃、同女を訪れた際同女に対し、その頃自分が扱つていた消毒液の話をし「手を洗う消毒水に半分薄めてもうかる」という話をしたのに対し、同女は、「そんな細かいことを考えないでもつと大きなことを考えなさい」といつて、「火災保険に入つたらどうか」とすすめ、「蓼科の食堂で保険に入つていて続けて三回程焼け、放火だと世間では騒がれながら、火災保険金を受けとつた」という事例を話したところ、本人においてもその気になり、即日辻井支部長に紹介されるや、その場で本件の一、〇〇〇万円の保険に加入する話がまとまつたものであつて、右事実から見ても被告人の保険加入の真意が奈辺にあつたかをうかがい知ることができるとしている。(中略)によると、一応右検察官のいう事実は認められるが、右証拠と第一二回公判調書中被告人古屋の供述記載を綜合すると、昭和三二年八月頃、被告人古屋は曾つて履物の取引のあつた頃の借財の言訳のため、御子柴たか子のところを訪れたところ、同女から保険加入をすすめられたものであることが認められるのであつて、その際御子柴から前述のような話がでたとしても、同女は生命保険の外交をしており、火災保険の代理店をしている右辻井とはお互いに商売上の関連を保つていたものでかような立場にある者が、火災保険を勧誘するため色々世間の事例を挙げて加入を勧めることは通常あり勝ちなことといえる。そうだとすれば、被告人の右供述記載にある通り自分が火災保険に入れば御子柴がそれに対するマージンがとれるだろうし、そうすれば同女に対する義理もたち、また同女とは関係もあつた仲だし、その勧誘を断り切れず、加入したものともいい得る余地もある。

4、検察官は、本件一、〇〇〇万円の火災保険契約後、間もなく右湖楽の建物、動産につき人口計八〇万円の火災共済契約が結ばれ、しかもこれは二重の加入になつている、すなわち、県商工共済においては、食品協会傘下の組合員の火災共済については、一危険単位すなわち一個の建物及びこれに内在する動産の全体について計四口、(一口金一〇万円)を限度として加入を認めており、食品協会の役員として火災共済募集を取扱つた被告人古屋においてもこのことを知悉していた筈であるのにかかわらず、同被告人は自己となみ代との各別名義をもつて一個の危険単位たる湖楽を分かつて建物を対象物件として、自己名義で四〇万円、什器衣類を対象物件として、なみ代名義で四〇万円の火災共済加入を申込み、情を知らない共済組合係員をして右加入事務を取扱わしめていたことは本件犯行動機を推認する一資料となるものと主張する。

千野節子の警察調書によれば、右火災共済は二重加入であることは明らかであるが右調書と第一二回公判調書中の被告人の供述記載によれば、かりに被告人古屋が右二重加入が違法であることを知つていたとするも、同被告人は当時、韮崎の職員共済の常任理事であつて、北巨摩郡全部につき右火災共済の募集を依頼されていたところから、その成果をあげるには先ず自分が高額に加入しているということを示す必要があるという気持で自己と、なみ代の各別名義にして加入したものとも推認され、さらに右調書添付にかかる千野節子作成の被告人の組合共済加入申込契約書の写の記載によれば、二通の各申込書の記載上からは、ことさら二重加入の事実を秘した形跡は認められず、二通の申込書を比較すれば、その記載内容から直ちに、二重加入であることは認められるのであつて、この点からも右のごとく推認の余地が十分あるばかりか、被告人古屋においては、このような加入の仕方が違法である旨の認識がなかつたのではないかと推認しうる余地も存する。

5、検察官は、湖楽の不動産及び動産の価額は、本件一、〇〇〇万円の火災保険金額に対比して比較にならない低額であつて、右一、〇〇〇万円の火災保険は明らかに超過保険であつたのであり、被告人古屋は、この事実を秘して右契約を締結したのであつて、これによつてもその真意を推認できると主張するが、この点については疑いはあるも、一概にかく断定することにも疑いがある。その詳細は、後に詐欺の点に関し判断する場合にゆずる。

6、検察官は、本件火災直後において、被告人古屋に特異な言動があるとして、これを指摘する。すなわち、被告人古屋は、火災直後の三月一五日早朝午前六時二五分長坂駅着列軍で、諏訪より帰つて来たが、その際姉谷戸よし江の夫の谷戸常次郎やその息子常秋が駅頭に迎えた。そして常秋から、「おじさん、えらいことをしたな、今後どうするぞ」といわれたのに対し、被告人古屋は言下に、「心配するな。一千万円入つていらあ」と平然としていい放つた。さらにその日、長坂警察署に赴いた際、功刀署長から「沢山保険に入つているね」といわれるや、逆に「保険に入つていていけませんか」といい返したのみか、署員に向つて「保険は博打みたいなもので、焼ければ俺の儲けだが、焼けなければ保険会社の丸儲けになる」等と放言した。かかるに言動は被告人古屋が保険における危険を偶然の不慮として観念することなく、期待せられた予定の事故として表象したもので、被告人の心理を推認しうると主張する。

(証拠―省略)によれば、火災直後被告人古屋に右のごとき言動のあつたことは認められるが、右常秋に対する言葉はかえつて、被告人古屋において本件火災後見舞つてくれた親族の者に対し安心させるための言葉とも汲みとれるし、署長や署員に対する言葉も、真実放火を企てた者がその直後、不用意に第三者殊に警察において、かかる言葉をもらすことは、極めて不自然なことで、むしろ犯行がなかつたからこそ、かかる放言をなしえたものともいいえられるところである。

7、検察官は、被告人古屋は保険加入直後の昭和三二年一〇月頃湖楽にあつた畳六ないし八畳及びカメラ、写真引伸機を上黒沢の本宅に搬出移転した事実があり、しかもこのことにつき同被告人は右畳が湖楽の麻雀をやる部屋にあつたことを知る甥谷戸福男に対し、「あの畳は八月頃運んだことにしておいてくれ」との旨を申し含めている事実がある、このように保険加入以前に搬出したもののごとく仮装しようとしたことは右の搬出が放火の準備工作として行われたものであることを推認させると主張する。

確かに谷戸福男の34、3、16付検察調書中には右記載のあることが認められるが、この記載は当裁判所の証人谷戸福男に対する証人尋問調書中において、当時右福男が麻雀をする部屋の畳をあげて仕事をしていたことは確かだが、この畳はその後運ばれたかどうかは知らない、ただ後になつて兄の谷戸常秋から畳を運んだことを聞いたものであると供述していることから、にわかに借信できず、かえつて(証拠―省略)によれば、昭和三〇年頃、被告人古屋は上黒沢の本宅から湖楽へ畳六枚を運んだことがあり、昭和三二年になつてから一子より本宅の畳が悪くなつたから前のを返してくれといわれたので、同年五月頃湖楽から畳八、九枚を運んだことが認められる。また右各証拠によれば、写真機と引伸機は昭和三三年九月頃運ばれた事実がいずれも認められ、そして前記谷戸福男の検察調書中八月頃に運んだことにしてくれと被告人古屋から口止めされた旨の記載は、右証人尋問調書の記載と対比すれば措信できない。さらに第二、第一一回公判調書中証人谷戸常秋の供述記載中に右認定に友する供述部分があるも同証人の供述は後に説明する通りこれを信用することはできないところである。

8、検察官は、本件火災発生より約二週間前の昭和三三年二月二七日の午後一二時頃、湖楽の西側露地を隔てた隣家中村有世方の出火に際し当時被告人らに左記(イ)ないし(ヘ)の如き言動があり、かかる言動からすれば、同出火も被告人らの所為によるものとの疑いが濃く、これら一連の事実も本件放火の一推認資料となるといい、その言動として指摘するものは、

(イ) 被告人両名の居室は湖楽の西側、すなわち中村方勝手場の真東に露地をへだてて隣接し、窓からでも中村方の火元を知り得る筈であるのに、なぜか被告人古屋はことさら湖楽の二階に上つて火事はどこだと叫んだこと。

(ロ) 被告人両名とも、ぼやの鎮火にいたるまで中村方に姿を見せなかつたこと。

(ハ) 中村たけ子が不審な火だと叫んだのに対し、被告人古屋は中村方に至り、「警察の人に迷惑をかけるな。お前の家から火が出てなにが不思議だ」と言つて怒つたこと。

(ニ) 被告人古屋はかねて中村たけ子や被告人熊谷に対し、「隣りでもなみ代でも事があつたら居間にかけて鉄砲の玉を持ち出してくれよ」等と言つたことがあり、また右のぼやの後三月上旬頃、被告人熊谷は右たけ子に対し、「あの時は迷惑をかけてすまなかつたが、今後はおばちやんの家に迷惑をかけないから」とか、「おばちやんは家のかまどのことをよく知つているから、もし火が出るようなことがあつたら家のかまどから出たことにしておいてくれよ」等と申して頼んだりしたこと。

(ホ) 被告人古屋はその頃御子柴たか子方に赴いた折、右ぼやのことに言及し、「中村方ではこの前もぼやを出したが風が自分の家の方に吹けば隣りと一緒に燃えてしまう。燃えれば火災保険金がうんともらえる」等と話したこと。

(ヘ) 右ぼや後間もなくの三月四、五日頃湖楽の筋向いにあたる山崎自動車修理工場において、従業員の不始末から油鑵の洗油に引火したことがあり、その頃被告人古屋は長坂署に行き、刑事係長萩原潤に対し、「中村有世方でもまた山崎善吉方でもぼやがあつたので今度は俺の家の番だ」と話した

というのである。

右中村方における出火が、同人の家屋東側勝手場(湖楽と隣接側)床下の松葉から発火したものであることは前掲中村たけ子の検察調書で明かである。

そして、右(イ)ないし(ニ)については中村たけ子の34、1、28付、34、2、5付各検察調書から、(ホ)については御子柴たか子の34、3、4付検察調書から、(ヘ)については山崎善吉、萩原潤の各検察調書によりいずれも認定しうるところであるも、右のごとき出火に際し、右(イ)ないし(ハ)及び(ヘ)のごとき言動あるも、これは通常あり得ることで、これをもつて被告人らの態度に特に不審の点ありというはいささか早計である。(ニ)についても被告人古屋の言葉は、右出火の前から猟銃や弾丸をみがく折に出たものであつて、一般に火薬類を取扱う者はふだんから非常の注意をして置くのは、特に異とするに当らないし、被告人熊谷の言葉も放火したことを謝る言葉とみることは困難である。また(ホ)の事実も被告人古屋の御子柴たか子との前説明のごときこれまでの関係からみて世間話のうちに出ることは異例のこととはいえない。

しかも(証拠―省略)を綜合すると、二月二七日夜中村有世方で十人位の集りがあり、九時過頃全員が帰つたこと、当日午後八時頃中村たけ子は勝手場のかまどから六畳間の炬燵に火を入れようとしたところ、途中階段の板透間に十能の火を落したこと、そして中村方では午後一一時過ぎ就寝し、午後一二時頃中村たけ子が目覚め、勝手場西南隅の床から焔が立ち上つているのを発見したことが認められ、右出火が当夜集つたものの過失ないし、十能を落したことに原因するものとの疑いを容れる余地が十分ある。

右のごとくである以上、右出火が被告人らの所為によるものとの疑ありとし、または右言動を本件放火認定の資料とすることは、甚だ危険といわざるをえない。

9 被告人古屋が本件火災発生当夜下諏訪町の姉小口島江方に宿泊していたことははじめに認定したとおりである。

(ニ)検察官は、これは同被告人が被告人熊谷と共謀し、当夜被告人熊谷がその実行に当ることにし、かかる事実の発覚を妨げるため故意に作出されたアリバイであるとし、その理由を次のように説くのである。

被告人古屋において小口方に赴いた理由につき、「母の病気を知らせかたがた神経痛で腰が痛むので下諏訪の温泉に入るためであつた」と弁解するのであるが、母の病名は甲腸病院小林忠治院長の診断によれば、急性気管支炎で生命の心配はなく、親戚を集める程の状態ではなく、湖楽にも小口方にも電話があつたのであるから、母の病気を知らせるためには電話で事足りことさら下諏訪に出かける必要は認めがたい、のみならず、被告人古屋が午前中小林院長を送る車内で院長に対し、「今日は今から一一時何分かの汽車で諏訪へ行かなければならない用事があるから」と言つていることによつても被告人古屋が小口方へ赴いた意図が母の病気を知らせる以外に存したことを推認し得られ、しかも被告人は下諏訪では共同風呂は満員だからというので、入浴していないのであつて、そのことは逆にいえば、わざわざ湯に入るため下諏訪に出掛けるほどの腰痛はなかつたといえるので、右被告人古屋の弁解は理由なく、単なる口実に過ぎないことが推知されるところである。ただこの点に関し当裁判所の証人小口島江の第一回証人尋問調書によると、被告人は小口方に行つてから母の病気の話をしたところ、島江から「電話でもよかつたに」といわれて、「電話でもよかつたけどたいしたことないから」と合槌を打つており、また同被告人が当夜小口方に泊つたのは、同被告人が一〇時に帰るといつて横になつていたが、時計が止まつているのに島江が気付かず被告人を起すのがおくれ、列軍に間に合わなかつたためであると右主張に反することを述べているが、同被告人は湖楽を出掛ける際表に子供を背負つていた中村たけ子に対し、今から諏訪へ行くんだが明日帰るといつている事実に照らせば、小口島江の右供述記載は容易に措借しがたく、かえつて被告人が当初より下諏訪宿泊の意図をもつて出掛けたことを推認しうる。また湖楽火災のことは三月一五日午前二時三七分湖楽の近所の千野富貴子方の電話で同女から小口方にあつた被告人古屋に連絡されているが、その際の被告人の応対の態度には格別驚いた様子もなく、なみ代の安否を尋ねることもせず、しかもその直後、長坂署に電話する一方、蓼科観光ホテルにある御子柴たか子に電話して保険会社への連絡を依頼しており、なおまた下諏訪から長坂町までハイヤーを頼めば直ちに駈けつけることができるのに、翌朝ようやく長坂駅に帰着しているという一連の事情からするも右主張は十分首肯し得るところである。というのである。

そこでアリバイは作出されたものとする右主張事由につき検討するに、破かに(証拠―省略)の中には右主張事実に照応する旨の供述記載がある。しかしながら、他方(証拠―省略)を綜合すると、被告人古屋は三月一四日午前六時三〇分頃上黒沢の本宅にいると中村有世から、母が意識不明になつて倒れたとの知らせを受け、直ちに実兄の原正に知らせ、清水勘解由方へ赴き母を見たところ、当時意識はかなり回復していたものの、熱もあり老齢でもあるので、医者にはさらに翌日の往診を依頼した上、右原正と相談し、早く他の親類の者に知らせて呼んできた方がよいということで、谷戸よし江、清水まつ子の二人の姉を呼びに行き、また小口島江にも何らかの方法で連絡することを右原正に約束して、午後一時半過ぎに湖楽に帰つた事実が認められる。

そうだとすると、被告人古屋の弁解するように車で午前中方々歩き回つたので、湖楽に帰つてから腰が痛くて、一時間半位休んでいると、午後三時頃中村たけ子に起され、そこで入湯をかねて姉のところへ出掛けようという気になつたものであり、また車中での医師に話した言葉も当時一一時の汽車に間にあえば、知らせに行つてもよいという気持で話したものとも推測され、小口方へ行つてからも、島江が夫に相談してから出掛けようということで、待つている中寝過ごして汽車におくれ、結局明朝一緒に行こうということになつたところ、午前二時過ぎになつて湖楽の近隣の千野富貴子の電話によつて湖楽が火事だということを聞き、焼けた以上仕方がない、あとの手続をしようという気になつて警察や御子柴たか子へ電話したものであるというも、あながち無理ではない。しかして前記中村たけ子の証人尋問調書中の、古屋被告人は明日帰るといつて出かけた旨の記載は中村たけ子の検察調書とともに後掲理由のごとくして必ずしも正確なものとはいえず、全面的には信用できない点があり、右検察調書中の古屋被告人は明日帰るといつて出かけた旨の供述記載も必ずしも信用することはできない。従つて、被告人古屋のアリバイは故意に作出されたものと断定するについては疑いがある。

10、検察官は、三月一四日被告人熊谷が湖楽に帰宅したのは午前一〇時過ぎであり、被告人古屋は午後一時ないし一時半に帰宅し午後三時前後に下諏訪へ行くためでかけたのであるから、被告人両名において放火について謀議する時間的余裕はあつた筈であり、そして当裁判所の証人中村たけ子の証人尋問調書によれば、被告人熊谷は当夜八時半頃隣家中村方へでかけ、夜警代二〇〇円とりんご、みかんなどを差出して夜警を頼み、「やたら胸騒ぎがして困る」といつて帰り、その後、午後一二時過ぎ頃湖楽の飼犬ジヨンが鳴くのでたけ子が自宅東側の窓から電気のついている湖楽の居室に、「奥さん、奥さん」と声をかけると、熊谷の返事があり、「あんまり犬が鳴くからどうしてですか」と聞くと、「ジヨンははなれているから大丈夫だよ」と答え、その際、「何かあつたら頼むよ」と言つたとの供述記載がある。湖楽の出火は右の事があつてから二時間以内のことに属するのであつて、平素は夜間裏口につないでおくのを常とする飼犬を当夜に限つてしかも深夜解放したということがすでに異常で奇怪なことであるが、被告人熊谷がたけ子にいつた、右言葉は被告人熊谷に出火に対する予見があつたことを認めるに十分で、なおこれに第一二回公判調書中被告人熊谷の供述記載中の、被告人熊谷は午前一時過頃就寝したが、なかなか寝つかれず、そのうち猫の鳴き声に目をさまして出火を発見したが、その時はすでに勝手場が炎上しており、一旦戸外に飛び出し、中村公夫とともに再度屋内に飛び込んだ時には、西側南の居室が炎上して手のつけようがなかつた旨の記載を対比すると、中村公夫をはじめ近隣の者が現場に来た時は、すでに湖楽の火勢は猛烈をきわめて手のつけようがなかつたのである。そのことは、被告人熊谷が出火を発見した時が既に初期の段階を過ぎて炎上の最中であつたことを意味することとなり、また寝入ばなの被告人熊谷が猫の鳴き声でも目が覚めるのに、自家炎上にいたるまで出火に気付かなかつたという供述には矛盾の甚だしいものがあるといわざるを得ない、のみならず、中村公夫の34、1、14、付警察調書等にもあるように、同被告人はただ「困る、困る」というだけで、大声で救いを求めることをしなかつたという態度にも、事態の発生を予知した者の落着きがうかがわれるところからすれば、被告人熊谷が右謀議による実行行為をしたものであることをうかがい知ることができるという。

前記9に掲示の各証拠によれば、三月一四日被告人両名が湖楽に帰宅し、被告人古屋が下諏訪へ出発した時間が検察官のいうごとくであることが認められる。そして当裁判所の証人中村たけ子の証人尋問調書中に右検察官のいうところの記載もあるが、当夜の飼犬ジヨンのことについては、特に当夜解放したものか否かは証拠上明確でなく、第一三回公判調書中、被告人熊谷の供述にジヨンは時々鎖をはずして逃げることがあつた旨の記載があることからすれば、そのように認めうる余地もあり、「何か事があつたら頼むよ」といつたとしても前記応答の末のことであつてみれば儀礼的なものに過ぎず、これを異とするに足りず、そして被告人熊谷の出火発見がおくれたというも、プロパンガスに引火した場合にはかなり早く火が拡がることが予想されるところであり、同被告人が外へ飛び出して中村公夫に出会つた際、ただ困る困るというのみで別に大声で救いを求めなかつたとするも同被告人が発見したときは手のつけようのないまでに燃えあがつていたのであるから、突如かかる状況下におかれた婦人としてその驚怖と狼狽のあまり声も立て得なかつたとするもさほど異常なこととはいえない。特に前記中村公夫の34、1、14付警察調書によれば、せき込んだ恰好で泣きそうな声で、「困る困る」といつた旨の記載をあわせみれば検察官のいうごとく、事態の発生を予知していた者の落着いた態度とするは早計の嫌いがある。また猫のなき声に目覚めたというも、事実は火事の物音も原因しているかも知れず、ただ眠つていたものが目覚めた時、たまたま猫の声を耳にしたためそのように思い込んだとするも異とする要はない。そのうえ、第一四回公判調書中、証人大島淑司の供述記載によれば、検察官に対する取調べの際に、中村たけ子は湖楽の火事は自分の子中村公夫が放火したもので、たしかにその現場を目撃したと供述するに至り、右公夫もその後検察官の追究により、被告人熊谷に頼まれて放火したと自白するに至つた事実が認められ、中村たけ子の検察調書二通はかなり迎合的想像的であり、当裁判所の証人中村たけ子の証人尋問調書中にもその信憑性につきかなり疑わしい点が認められ、これを全面的に措信することはできない。

以上検察官主張の情況事実に関し、右に認定した事実及び各その説明事由を綜合し、さらにこれに関する検察官の意見ないし見解もまた見方により首肯し得るものがあるのでこれを併せ考えるに、本件火災の原因が被告人らの放火によるものであるとの疑いはこれを否定し去ることはできないが、右(一)において説明のごとき失火の蓋然性を考えあわせると到底被告人らの所為であると断定することはできず、結局右放火の事実はその証明なきものといわざるを得ない。

なお、検察官は、被告人古屋は火災直後の三月三一日長坂商工組合にいたり、現金一五万円の当座預金預入を申込むとともに、預入の日付を三月五日頃に遡らせてもらいたいと頼み、係官にやむなくこれに応じた取扱いをさせた事実を指摘し、このような工作は、火災前において一五万円の当座預金が存したとの状況を作為することによつて、同被告人が経済的に困つていなかつたとの証拠を作り、もつて動機の抹消を図ろうとしたものを主張するところ、伊薬米子、小沢善六の検察調書、押収にかかる当座預金元帳によれば、右事実は明白であり、検察官主張の動機を推認しえられるごときも、これをもつて直ちに右結論を動かすことはできない。またこの他、被告人熊谷が一、〇〇〇万円の火災保険契約のあつたことを知つていたこと、昭和三三年一月か二月頃被告人古屋が湖楽へ親戚を呼んだ際炊事場で料理中火気の危険を感じたとき、手伝に来ていた隣家の中村たけ子に、「こんな家は保険にのつているから焼けてもよい」等と放言し、また被告人熊谷も、「金に困つた、こんな家は早く整理した方が良い」等と口走つたこと、被告人両名が三月一五日夕刻谷戸常次郎方で雑談中、常次郎の息子福男が焼失後の現場等で警察職員に対して湖楽の評価額を五〇万円位と述べたことをとらえて、被告人古屋は警察に行つてつまらぬことをいうと保険金がとれないじやないかと叱りつけたこと、火災の数日後被告人古屋は、被告人熊谷に対し、「警察で調べられたら、最初警察に述べたかまどの不始未ということにしておけ、それ以外にどのようなことがあつても口をわるな」と告げたこと、その頃隣家の中村たけ子に対して被告人両名から本件火災はかまどの粗相から出たことにしてくれと頼んだことなども放火認定の一資料となると言うも、たとえかかる事実があつたとしても右結論を左右することはできないものである。

三、次に前記本件詐欺の公訴事実を要約すれば、被告人らは共謀の上前記湖楽の建物の焼失が被告人らの放火によるものであるのにこれを失火であるとしたことと、罹災額が合計二七〇万円位であるのに罹災損害見積書には損害額合計一一、二六一、八〇〇円と記載した上これをきのえ旅館において保険会社側に提出したという二つの欺罔手段により、その旨査定主任らを誤信させ、よつて被告人古屋において保険金名下に九二五万円の金員の騙取を遂げた、というにあるので、以下この点につき検討する。

(一)  被告人らは共謀の上前記湖楽の建物の焼失が被告人らの放火によるものであるのに失火と欺罔して保険金を騙取したとの事実は、前記認定のとおり湖楽の焼失が、被告人らの放火によるとの証明がないので、右放火を手段とする詐欺の点も結局その証明がないというの外ない。

(二)  そこで以下保険金請求にあたり罹災損害額を事実に反し過額損害ありとして、その旨欺罔による保険金詐欺の点について判断する。

1 被告人古屋が、昭和三二年一〇月一日富士火災保険株式会社との間に同社岡谷支部扱いで湖楽の建物および動産合計一、〇〇〇万円の火災保険に加入したことは前段認定のとおりである。そして右契約締結の際における保険金額決定の経緯をみるに、第一二回公判調書中、被告人古屋の供述記載と当裁判所の証人鈴木清一の第一、第二回尋問調書を綜合すれば、富士火災保険株式会社の外務員鈴木清一は昭和三二年九月二八、九日頃、岡谷支部長辻井彰善の指図で湖楽へ赴き、保険金を定めるにあたり、被告人古屋の案内で各部屋を見て廻り、薬品、家財道具、什器などをそれぞれ見た上商品である薬品については被告人古屋の説明に従い、その数量から判断して先ず一〇〇万円ときめ、建物については両者の意見が合致して四〇〇万円ときめた後、家財道具については二〇〇〇万円、営業用什器については三〇〇万円として合計で保険金一、〇〇〇万円の火災保険契約をしたもので、鈴木もこの保険金額はいずれも妥当なものとして了承した。しかして当時は各動産につきいちいち点検したり、家屋について坪数から価額を割出したりしないで、大まかに、動、不動産総計で一、〇〇〇万円はあると見積つた上で、この額を右のように割当てたものであることが認められる。

2 次に本件火災後の右罹災損害見積書(以下単に見積書と略称する)及び建物平面図の作成経過をみるに、当裁判所の証人鈴木清一(第一、第二回)、木村豊次、鈴木新作の証人尋問調書、鈴木清一の34、2、23付検察調書と、第一三回公判調書中被告人古屋の供述記載によれば、富士火災保険株式会社の査定主任木村豊次と鑑定人鈴木新作は火災後の昭和三三年三月一七日夕刻現場に赴き、右木村は被告人らの避難先の借家で被告人古屋に見積書用紙を渡してその記載方を指示したこと、三月一八日朝木村豊次と鈴木新作は再び現場に行き、そこで損害保険協会関東地方委員会からの立会人鵜崎一郎と会つたこと、鈴木清一は同日朝現場に赴き、右三名の査定員に会い、被告人古屋にさらに見積書用紙を渡したりなどし、その際被告人両名および谷戸常秋に対し、「一、〇〇〇万円の保険をとるには見積金を一、三〇〇万円位に書いておいた方がよい」といつたこと、被告人古屋は居合せた谷戸常秋に依頼して被告人古屋の指示や被告人熊谷の説明に従い、再三にわたつてわら半紙に下書したのち、清書して見積書(昭和三四年押第二四号の三)を作成し、被告人古屋作成の建物見取図(前同号の四)とともに、右鈴木清一を通じて査定主任に手渡され、同日諏訪市「きのえ旅館」において被告人古屋および谷戸常秋は査定主任木村豊次、鑑定人鈴木新作に対し、右平面図および動産の罹災額につき説明し、結局支払保険金九二五万円と査定されたことを認めうる。

3、ところで、検察官は右見積書には故意に多額の水増記載がなされていると主張し、

(イ) 湖楽の建物につき被告人古屋が査定主任木村豊次に対し、提示した建物平面図に地下四〇坪、一階五三坪、二階二一坪、延建坪一三四坪あるとしたのは虚偽の記載である、すなわち、当公廷における証人平井哲夫、田中尚美の各証言と平井哲夫の34、1、16付警察書によれば、昭和三三年初頭、長坂町税務課長平井哲夫以下税務課員が固定資産評価にあつて実地に検尺して測量したところによれば、右建物は地下二四坪、一階三三坪、二階一〇坪、延建坪六七坪と算出されていることがうかがわれ、これが最も客観的確実性があるからだという。右平井哲夫らは右趣旨の供述をしているが、しかし中島文夫の警察調書によれば、昭和二六年頃被告人古屋が日本相互銀行韮崎支店から一〇万円を借受けるにつき、湖楽の土地建物を担保に提供した際に銀行側が実測したところでは七一坪あつた旨の記載があり、被告人古屋の34、1、23警察調書に、昭和三二年四月頃一階の南東に約八坪の岩風呂を建増した旨の記載があることからすれば、右証人平井らの供述はにわかに措信できず、六七坪が客観的に確実性ありとするは困難であるとともに、右中島の述べる七一坪もこれのみでは確実性ありとするは困難である。さらにこの建坪については当裁判所の34、6、23付検証調書の記載中、湖楽を建築した谷戸常次郎(この点当裁判所の証人谷戸常秋に対する証人尋問調書により明らかである)の指示によれば約八九坪余り、被告人古屋の指示によれば約一〇二坪となる。そして、千野節子の警察調書によれば、被告人古屋は火災共済加入申込にあたつて、地下三五坪、一階四五坪、二階一五坪、延九五坪と申告しており、司法警察員作成の33、5、15、付実況見分調書によれば焼失直後の実況見分に際して被告人古屋は警察官に延一二四坪といい、同被告人の34、1、23、警察調書では、一階四六坪、二階五七坪、三階三一、五坪、延一三四、五坪といい、34、2、3、検察調書では実際のところは一〇六坪が本当だといい、34、2、6検察調書ではその内訳を階下三九坪、一階四二坪、二階二五坪、延一〇六坪が正当であるといい、この点に関する被告人のいうところは区区としており、また家屋台帳によれば建坪五二坪となつている。

右のごとき状況から見積書記載の坪数が真実の坪数と異つているとは思われるものの、他方真実の坪数は遂にこれを確認することはできず、被告人古屋としてもまた正確な坪数についての認識はなかつたものと考えられる、そして同建物についての保険金は前認定の経緯で四〇〇万円としたものであつて、保険契約の衝に当つた保険会社社員鈴木清一から一、〇〇〇万円の保険金を取るにはより以上損害を受けた旨の見積書を提出するよう示唆を受けたものであることを考えあわせると、被告人古屋は建物全焼により四〇〇万円の保険金は当然もらえるもののと解し、右鈴木の示唆に基づき見積書を作成し、建坪については関心をもつていなかつたとも推測できる。

(ロ) 前記損害見積書には、商品たる薬品等の損害はアメルデツクス八〇〇、〇〇〇円、フエルト一三五、〇〇〇円、バルサンコ一二七、五〇〇円、キルコート一八四、六〇〇円、計一、二四七、一〇〇円と記載されており、査定においてこれを、一、〇四七、一〇〇円と認めて、保険金全額一〇〇万円を填補すべきものとしているが、右損害見積額は虚偽であるとする。

被告人古屋の34、1、32、付、34、129付警察調書によれば、被告人古屋の薬品仕入はフエルトを除けばすべて板山薬局からの納入にかかるものであるが、板山武裕の33、22、16付警察調書と添付の同薬局の納品帳簿写を検討すると、当時右見積記載の損害額を仕入位額としたこれに相当する商品がなかつただろううことはうかがえる、しかし本件火災により帳簿のすべてが焼失してしまい、しかも火災一日後の当時としては、焼失商品の数量を調査確定することは困難であつたことが推測され、さらに右損害見積額は同商品の仕入価額を基準としたものか、利潤を加えた販売価額によつたものか明確を欠き、また同被告人においていずれにより罹災損害額を算出すべきものであるかを知つていたか明らかでない。同被告人が販売価額によるものとして算出したとすれば、本件の場合、特にその額は仕入価額をはるかに上わ廻るものであろうことは、前記二(二)3に掲記したごとく、同被告人が御子柴に「消毒水に半分薄めてももうかる」ともらしている点からもうかがうことができる。したがつて、右見積書記載金額が事実に反しているとするも、その虚偽の内容は具体的には知ることはできないのである。

そして、商品に対する保険金を一〇〇万円とした経緯、右鈴木の保険金請求についての示唆等綜合すれば、被告人古屋は商品焼失につき保険金一〇〇万円は当然もらえるものと解し、見積書を作成したものとみるもあながち無理とはいえず、その記載内容が事実とくいちがつているかどうかについての関心はなかつたものとも推測できる。

(ハ) 右損害見積書には、什器損害額は計三、九五七、五〇〇円であると記載し、被告人古屋は査定員に対し、「各部屋にはそれぞれテーブル、掛軸、布団二組あてをそろえてあつたし、冬は学生が沢山団体でくるのでその布団等もここに書いてある如くそろえてあつた。春は花見客がくるし、布団、丹前、寝巻等もこのとおりであるし、扇風機は主な部屋には全部つけてあつた」と申して、右見積書のとおりである旨説明し、査定員等をその旨信用させて堰補額を二七〇万円と査定せしめた、というのである。

見積書に右の如く記載し、右同様被告人古屋が説明したことは既に認定したところである。

被告人古屋の34、1、28付警察調書によれば、右見積が虚偽過大なものであることを自認しているが、その明細は日頃家事は被告人熊谷にまかせてあつたことから被告人古屋は十分知らなかつた旨の供述もあり、一方被告人熊谷は32、3、2付検察調書添付にかかる自筆の一覧表によれば四九一、〇〇〇円と記載している。しかし、これについても全焼後実在した動産と違うところなく、しかももれなく全部数えあげることは不可能のことに属することは説明をまつまでもない。これが火災直後の混雑最中で、見積書作成が急を要していた場合にあつてはなおさらのことといえる。しかも物件についての評価額は人により異り、所有者が最も高く評価するものであることは明らかである。したがつて、右見積書記載物件の中には一部焼失していないものもあるであろうが、また焼失物件で記載もれのものも存するであろうことは想像に軽くない。そうして右焼失物件を確定するに足る資料がないのであつてみれば、前述のとおりやはり被告人らは保険金三〇〇万円は当然もらえるものと解し、右見積書を作成したもので、記載内容の真偽については関心も薄かつたといえる。

(ニ) 検察官は、右見積書における家財一式の損害申告額は、計一、八五七、二〇〇円であるが、被告人らは右家財として特に被告人熊谷の衣類多種多数の記載されている事実に関し、「なみ代はもと芸妓をしたことがあるので訪問着、錦紗等も沢山あつたのに全部焼いてしまつた」等と虚偽の事実を申し向け、査定員をして大部分を措信採用せしめて損害の填補額を一、五五〇、〇〇〇円と査定させたものと主張する。

この点についても、見積書記載が右のとおりであり、被告人古屋が右のごとき説明をしていることは認められる。被告人熊谷が旅館の女中をやつていたことはあるも、芸妓の経験のないことは、同被告人の34、1、23付警調察書によつても認められるが、右言葉も結局衣裳持ちであることを強調するために使つたものとも認められ、真実どの程度の種類数量衣類等その他家財があつたかはこれを裏づける十分な証拠はなく、被告人熊谷の34、3、2付検察調書には家財損害額の合計は六三八、〇〇〇円であると述べているが、これを裏づける十分な証拠はなく、真実どの程度の価額の衣類その他家財があつたかを認める証拠はない、結局本項についても前説明のごとく、焼失物件の数量、評価額は確定するに由なく、前同様にして被告人らは当然この保険金二〇〇万円はもらえるものと信じて見積書を作成し、その内容の真偽には関心を有していなかつたものといえるのである。

4 以上の事情および第一三回公判調書の被告人古屋の供述記載中に、「保険に入つていて目的物が全焼した場合には保険金全部がもらえるものと思つていた」旨の記載あるをみれば、被告人らは火災保険契約を結び全焼すれば保険金全額は当然にもらえるものと単純に考えており、しかも鈴木清一の言を信じ、保険金全額をもらうには、その請求手続において保険金額以上の損害を受けた旨の見積書を提出するもので、保険会社側でもそのことは予測し公認されていたもののごとく思い込み、損害額の説明はいわば商取引上のかけひき程度と心得ていたものと推測し得るので、疑いは残るも被告人らに欺罔の意思があつたと認めることは困難である。

四、右により、結局本件公訴事実はいずれも犯罪の証明なきに帰するをもつて、刑事訴訟法第三三六条後段により、被告人らに対し無罪の言渡をなすべきものとし、主文のとおり判決する。

昭和三七年九月二六日

甲府地方裁判所刑事部

裁判長裁判官 降 矢   艮

裁判官 西 村 康 長

裁判官 石 原   寛

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